第2085回例会
第2085回例会 (2017年2月13日)
「平和と紛争予防/紛争解決月間に因んで」
ロータリー財団委員会 中園 直樹 委員長
神戸大学時代に多くの院生やスタッフと関わったカンボジアを例に紹介した。
紛争からの復興のカンボジアの悲しい歴史と、人々の社会生活と保健の改善のために、多くの院生が活動、活躍してくれた事例を彼らの修士論文や博士論文の紹介も含め、少し学問的にした。
カンボジアは内戦等の歴史は第二次大戦の後のインドシナ戦争、ベトナム戦争、その後の内戦など2000年まで続いて、多くの人材やインフラが失われた。
1953年 インドシナ戦争終結 してカンボジアはフランスの植民地より独立、ベトナムは南北に分断された。シアヌーク国王統治時代 : プノンペンは東洋の真珠と呼ばれフランス風な平和な国であったが、
1965年 ベトナム戦争(1965~73年) が隣国のベトナムで開始、米軍地上軍を導入、その後、空爆開始(カンボジアのベトコン領域)された。1970年 ロンノル親米政府がカンボジアでクーデター政権奪取した(ベトナム戦争がカンボジアを巻き込み継続)。その時から反米クメールルージュ(KR)台頭と政府軍との内戦が激化した。
1975年4月17日 KRが首都プノンペンを進攻・奪還 し、ポルポト恐怖統治(原始共産農業国家・都市破壊)、強制労働と粛清と虐殺が行われた。ポルポト政権による住民の大移動が行われ、
1975年4月 : プノンペンの都市市民を農村へ、農村の農民を都市へ。
1977年 : 更に都市の住民を農村へ再移動させた。いわゆる知識人(医師、教師など)と富裕な都市住民の粛清と収容、処刑し、農民は餓えや病気で合計数百万人が死亡と言われる。
1979年1月7日 ベトナム軍に支援されたカンボジア新政府がプノンペン陥落 ベトナム傀儡政権が登場した。その後は、ポルポト勢力掃討の内戦(タイ国境)が続く~ベトナム軍に後押しされた政府軍とのゲリラ戦、その後三派に分かれた内戦が10年以上続いた。
1992年 国連UNTAC(明石 康氏)が統治しKRの投降、ポルポト死亡(98年)でKRの瓦解、平和への道を歩み出し、2000年を迎えていた。
私が初めてプノンペンを訪れた2001年のカンボジアは、UNTACでのPKO派遣の高田警視の死亡と選挙管理に来ていたボアランティアの中田さんも死亡した後で、治安は不安定でしたが、ようやく平穏になり復興も始まりつつあったが、未だにポルポトの残党の勢力もタイ国境沿いにいた。このような大変な時期から、カンボジアの保健、医療、教育、農業経済などの協力を始めた。
それには神戸大学のスタッフ、JICA、ロータリー2680地区やヤマザキパンのNGO(FIDR)などの多くの協力を得ての10年以上に及ぶ活動であった。
数十年に及ぶカンボジアの戦禍からの結果としての貧困が最大の課題で、その貧困からの脱出、復興をテーマに、私の院生の多くは、調査、研究の場としてカンボジアを選んでくれた。解決すべき課題の多くは、ポルポト時代に失われた人材の育成が急務であった。そしてロータリーが重点項目にあげている、基本的(即ち初等)教育と成人(特に女性の)識字率を向上させ自己実現と貧困、保健の基礎の根源的手段の教育に力を入れる。そして母子保健、疾病予防と治療と生活の糧の獲得の技術(農業と手工業の技術)であった。
私の院生の何人かは、過酷な現地で辛酸を舐めながらも地道に数ヶ月以上住みつき、活動し、多くの現地の人々に感謝される数多くの成果を、教育関係、栄養調査、寄生虫調査、エイズ調査、結核調査、小児保健、身体障がい者支援、農業開発などの分野で活躍した。その後に大学の教授や准教授やNGO のスタッフになる人が何人も出た。また院生らの協力者であったカンボジアの保健省や経済協力のスタッフの数人も神戸大学に留学して来るなどで親交を温めた。