第1回クラブフォーラム
第2302回例会(2023年8月21日)
カネジン食品株式会社 営業企画室 室長
柳町 雅志 会員
カネジン食品営業企画室の柳町と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
それでは早速、プロフィールから始めさせていただきます。1962年、昭和37年9月、函館生まれ。
東京の大学を卒業後、27歳の時に新聞記者としてニューヨークで勤務していました。1990年から1993年と、日本ではちょうどバブル真っただ中の時代です。ですから私は残念ながら、日本のバブルを経験していません。日本の不動産会社が、アメリカの富と権力の象徴であるロックフェラーセンターや、ティファニービルを買収した時です。当時、私が暮らしていたのはマンハッタンのセントラルパークの南側、日本航空が持っていた58丁目のエセックスホテルの真向かいのコンドミニアムでした。
ニューヨークに着任して2週間もしないうちに、前の大統領のドナルド・トランプ氏に会う機会がありました。トランプ氏と言えば、当時のニューヨークの不動産王です。ある朝、通勤している途中、通りがかったホテルの前に行列ができていて、なんだろうと思って並んでいる人に尋ねると、ちょうど自叙伝を出版したばかりのトランプ氏のサイン会が開かれていると言うのです。サイン会の会場は、トランプ氏が当時所有していたプラザホテル。あのプラザ合意の舞台になったホテルでした。自叙伝を購入すると、トランプ氏本人が直筆でサインをしてくれ、握手もしてくれるとあって、早速、私も自叙伝を購入して列に並びました。
今でもその自叙伝は、ちゃんと持っています。もちろん英語の本なので、途中で読むのは断念しましたが…。
当時、ニューヨークの2大不動産王と言えば、5番街にある金ピカのトランプタワーで有名なドナルド・トランプ氏と、所有するビルの屋上が全て四角推に作られている、ユダヤ系のゼッケンドルフ氏です。国連本部の近くにあるゼッケンドルフ氏所有のコンドミニアムには、当時、結婚したばかりの郷ひろみさんと二谷友里恵さんが暮らしていたんですよ。
ニューヨークでは4年間で全米50州の約半分の25州を取材で訪れ、さらにカナダのモントリオールや、当時開発が始まったばかりのメキシコのカンクンなども取材しています。
日本郵船が当時所有していた豪華客船で、ニューヨークの港からカナダのハリファックスまで、俳優の島田陽子さんと一緒に乗船し、特集記事を制作したこともあります。
そんな中でも、最も記憶に残っているのが、オードリー・ヘップバーンさんへの取材です。ユニセフの親善大使を長く務め、自身が主催する恵まれない子供たちのための寄付金集めのパーティーを取材させていただきました。ただ、あまりに緊張しすぎて、ヘップバーンさんを取材したということだけしか覚えておらず、どんなインタビューをしたかは当時、私が書いた記事を読むしかありません。お年を召されていましたが、優しい語り口で、美しい女性だったことは鮮明に覚えています。
ニューヨークでの最後の仕事は、ワールド・トレード・センターの地下で起きた、イスラム原理主義による小規模な爆破事件です。このワールド・トレード・センターは、2001年に起きた同時多発テロで跡形もなく壊されてしまうのですが、ワールド・トレード・センターというツインタワーのビルは日系人のミノル・ヤマサキさんという方による設計なんです。コルベット・スティングレーというアメリカ人が愛して止まない車も、実はラリー・シノダさんという日系2世の方による設計なんです。
湾岸戦争の真っただ中、夫や息子の中東への派兵を誇らしげに語るアメリカ人家族。一方、国連本部の前で連日行われる戦争反対のデモ。そうした中、スカッドミサイルをイラクに向けて発射する映像がCNNによってテレビでリアルタイムに放送された時、その圧倒的な映像の力に驚き、新聞という時代が終わりに近づいていることを感じました。ちょうど30年前のことです。
UHB北海道文化放送に転職したのは、ちょうど30歳の時。最初の配属先は本社報道部でした。奥尻島が甚大な被害を受けた北海道南西沖地震、カンボジアへの自衛隊PKO派遣、豊浜トンネル崩落事故、平成の米騒動など、この頃は本当に大きなニュースが続きました。その後、営業部に異動となり札幌本社、東京支社、そして再び札幌本社と約15年間も営業部での勤務が続き、営業部を離れられたのは、編成局の部長になってからのことでした。その時代はちょうど経済産業省のクール・ジャパン政策が始まり、日本のコンテンツを海外に紹介し、地方の魅力を海外に発信することで、海外から日本への観光客の増加を目指そうという流れが勢いを付けていた頃でした。海外のコンテンツ・マーケットなる見本市に参加し、映画やテレビ番組が売買されていることを初めて知りました。映画やテレビ番組は、どこで売られているのか。それは皆さんもよくテレビで見かける、映画スターたちが歩くレッドカーペット。その映画祭の会場の舞台裏で行われているんです。最も有名なのは皆さんもご存知のフランスのカンヌ映画祭で、ここでは何十億円という映画やテレビ番組の取引が行われています。
このコンテンツ・マーケットはアジア各国でも行われています。9月に韓国で行われる釜山映画祭、10月の東京国際映画祭、12月はシンガポール、3月は香港で行われています。韓国の釜山映画祭は1回だけでしたが、東京、シンガポール、香港のコンテンツ・マーケットには7年連続で出展しました。初めの頃は、権利処理を終えたUHBの自社制作番組を何十枚ものDVDに焼き込み、スーツケースいっぱいに詰め込んで、各国のコンテンツ・マーケットに持っていきました。その中でも北海道の野生の熊や丹頂鶴、知床の自然などのドキュメンタリー番組がよく売れましたが、その後、次第にリポーターが道内各地の観光名所やグルメを取り上げる旅番組が、売れるコンテンツの中心となっていきました。
海外のテレビ局から最も問い合わせが多かったのは、アニメ番組です。今でも最も売れている日本のコンテンツは、アニメ番組だと思います。
ここで皆さんに一つ質問です。北海道のテレビ局が、アジアの国々で販売している番組で、最も売れているのは何という番組でしょうか?答えはHBC北海道放送の「あぐり王国」です。理由は、「あぐり王国」を買い付けるアジアの国々はまだ発展途上国が多く、農業が国の重要な産業となっている国々で、日本の農業の最新技術や農作物の話題を知りたがっているからなんです。
シンガポール、香港、韓国に加えドバイ、インド、ロシアのコンテンツ・マーケットにも参加しました。海外のテレビ局と共同制作した番組の数は約70本にのぼり。このうちタイとはドラマも含めて40本以上の番組を共同制作しています。番組の共同制作が最もしやすいのはタイのテレビ局。ベトナムは国営放送しかないため、NHKのような真面目な番組が多かったです。
訪れた国で最も物価が高かったのはドバイ。ちなみにドバイはビール1缶が約1,500円、生姜焼き定食が約4,800円、居酒屋でビール数缶とちょっとしたつまみを頼むと、1人20,000円はすぐ超えてしまいます。
その当時、ドバイの人たちの平均年収は、4,500万円だとうかがいました。
最も鮮明に記憶が残っているのがインドです。ムンバイでもニューデリーでも道路は人や牛、車で混然一体となって溢れかえっていました。まさに、「生きる原点」という表現がぴったりなのかも知れません。すっかりインドの虜になってしまい、帰国してから、ぜひインドに支局を作ってほしいと上司に懇願したほどです。
続いて、私が今勤めているカネジン食品についてお話をさせていただきます。カネジン食品は、ラーメンの麺を作っている製麺会社です。
カネジン食品の麺は一般にはほとんど小売りをしていないので、カネジン食品という社名をほとんどの方が聞いたことが無いかも知れません。札幌に本社を置き、国内は東京、海外はシンガポール、タイ、香港に事務所と工場を構えています。道内では後発の製麺会社ですが、実はもう40年も麺を作り続けており、道内全域はもとより東北地方、そして東京工場からは九州まで、毎日15万食の麺を供給しています。シンガポールの工場で毎日5万食の麺を製造していますが、それでも麺が足りない状況になっています。その一因となっているのが、昨今の世界的な日本食やラーメンのブームであり、それは取りも直さず、今まで日本食の文化を世界各地に広めてきた日本人シェフたちの努力の賜物と言えます。
私が海外に関する仕事をしていると話すと、大抵の人が「あなたは英語が話せるからいいよね」と言います。でもね、実は英語が通じる国はそんなに多くはないんですよ。台湾やタイでは英語はほぼ通じず、日本語の方が通じる場合が多いこともあります。東南アジアの国々では、英語よりむしろ中国語を話せた方が、コミュニケーションが取りやすいと言えるでしょう。何を伝えたいのかというと、コミュニケーションを取ろうとする意志さえあれば、現地の言葉はそれほど問題ではないということです。昔、中学校で習った英語でも十分通じます。もちろん、現地の人たちと仲良くもなれます。日本国内でも海外でも、ぜひ積極的に海外の方とコミュニケーションを取ってみてはいかがでしょうか。
本日はこのような機会をいただき、拙い私の話に最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
(原文のまま掲載)