第2345回例会
第2345回例会(2024年10月21日)
「ロータリー米山、日本、そして私」
米山記念奨学生(札幌西北RC) 沈 嘉琳 様
皆さんこんにちは、札幌西北ロータリクラブの奨学生、沈嘉琳と申します。本日、卓話をする機会を頂き、札幌北ロータリークラブの皆様にお会いできることに対して、誠に感謝いたします。「ロータリー米山、日本、そして私」というタイトルでスピーチをさせて頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。
一、自己紹介
1998年の春、中国の遼寧省遼陽市で生まれました。遼陽は多くの人に知られていないところなので、自分の故郷を紹介する時、いつも「瀋陽に近いところ」「大連に近いところ」、という風に一言を添えます。小さいし、知名度も低いですが、遼陽は非常に長い歴史を持つ都市です。人が優しいし、山も湖も多くありまして、綺麗で可愛い町です。機会がございましたら、ぜひ遼陽に遊びにいらしゃってください。私の家族は三人家族です。さらに父が飼っている金魚も六匹います。父は書道を教える教師で、母は家具販売会社の店長です。私が大学に入るまでは、ずっと遼陽で育ちました。中国の大連外国語大学で二年間日本語を勉強した後、交換留学のプログラムを通じて、大学三年生の時に、日本の創価大学へ留学しに来ました。
二年半の学業を経て、学位を取得した後、北海道大学の修士課程に入学し、去年の4月に北大の博士課程に進学しました。日本に来きてから、今年で七年目です。
私は小さい時から色々習いました。ダンスを小学校六年間、絵画を中学校二年間、ピンパン(卓球)を一か月間、中途半端のものが多いですが、様々な物事に好奇心を持つような性格が養成されました。世界一の豪雪都市である札幌に来た後も、初めてスキーを挑戦し、フィギュアスケートをも一か月間習いました。
すごくラッキーだったのは、フィギュアスケート界の貴公子だと言われる小塚崇彦選手がレッスンに一回いらっしゃって指導してくれました。札幌は冬が特徴的ですが、他の季節も魅力的です。札幌で勉学、生活できるのはすごく幸せなことです。
二、研究内容
私は日本近現代文学専攻で、村上春樹文学とアメリカ文学の比較研究をしております。
村上春樹は今年またノーベル文学賞を逃しました。2012年から毎年、ノーベル文学賞の発表の日に、村上春樹のファン、通称ハルキストたちは札幌の美深町で集まります。村上さんがノーベル賞を受賞するのを期待しながら、ノーベル文学賞の発表を一緒に見守るらしいです。今年も賞を取れなかったのは残念ですが、村上春樹は世界中で大きな影響力を持つ作家であり、世界文学作家の代表だと言っても過言ではありません。
比較文学の観点からの村上文学研究は二種類に分かれています。日本以外の多くの国での村上作品受容に関する研究と、アメリカを中心とする他国の文化や文学作品が村上の作品創作に与える影響に注目する研究です。
一九八五年、台湾で村上の三つの短編小説が翻訳されたのを始めとして、九〇年代から、村上作品は海外で流行し、30カ国を超えて翻訳されました。世界的に受容される一方、村上は欧米文学を受容する側でもあります。
村上春樹は欧米文学を耽読し、多くの文学作品の翻訳にも取り組みました。村上がデビュー作『風の歌を聴け』を書いた直後に、スコット・フィッツジェラルドの短編小説を翻訳しました。それ以来、彼の翻訳作業はレイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、J・D・サリンジャー、スコット・フィッツジェラルド、ジョン・アーヴィング、レイモンド・チャンドラー等のアメリカ作家の作品翻訳を中心に展開され、今までも続いております。彼の手による翻訳された作品は八十作を超えています。
村上作品は一貫してアメリカ文学から如何に影響を受けてきたのか、米文学との比較を通じて村上作品の解読は如何に発展しうるのかについて、系統的な研究はまだ行われていません。私は博士課程ではアーネスト・ヘミングウェイを初め、村上文学と米文学の関係性を明らかにすることを目的として、研究を頑張っています。
村上春樹文学研究が人生の重要な課題となり、日本・日本文学と深い繋がりを持てるまでに辿ってきた経緯について、皆様にシェアさせて頂きます。
三、日本へ留学した動機
私が生まれた90年代の中国では、日本からの輸入品が急増していました。パナソニックのテレビや、ソニーのスピーカー、お父さんが友達に頼んで日本から持ち帰ったキャノンのカメラなどに囲まれながら、私が育ちました。品質が良いし、かっこいい電気製品を作る国である、というのは、私の日本に対する最初の印象です。また、『ドラえもん』や『カードキャプターさくら』、『ちびまる子ちゃん』などのアニメを通して、おにぎりを食べること、小学生は黄色い帽子を被って自分で学校を通うこと、冬になるとこたつに入ってみかんを食べることなど、日本の生活文化を知ることができました。小さい時から、日本という国に心が惹かれた原因もあり、大学の専攻を日本語に選びました。
中国の大連外国語大学では、日本語を学んでいたほか、日本茶道の授業を履修したり、日本人の学生達のパフォーマンスを鑑賞したりして、日本文化に触れました。また、日本語を上達させるために、日本語のランゲージコーナーに参加し、日本人の留学生と話し合い、日本文学作品をも読みました。その過程の中で、日本文化と日本文学に興味を持ち、いつか日本に行って、日本への理解を深めたいという気持ちが強かったです。
大学二年生の時、日本創価大学の学生達が、自分が在学していた大連外国語大学に来訪しました。スタッフを務めた私は、日本人の学生達と文化交流をした二日間の間で、友達になり、連絡先を交換しました。ぜひまた会おうね、と約束するのをきっかけに、私は交換留学のプログラムを通して日本の創価大学へ留学することになりました。
その後、中国で知り合った創価大学の友人達との再会を果たすことができましたし、彼らと時々一緒に食事をしたり、中国研究会の活動で交流したりして、年に一度の中国語弁論大会の司会をも務めました。
以上で日本文化と文学を勉強したかったのと、日本人友達と再会したかったので、私は日本に留学しに来ました。博士課程に進学するには、経済的な不安や、勉学上のストレス、社会の枠から外れる恐れなどがありますが、中国にいた時から憧れを持ってきたロータリー米山との出会いによって、元気で生活しながら研究活動を行っています。
四、ロータリーでの学び
今年四月にロータリー米山奨学生になって以来、半年間が経ちました。わずか半年間ですが、貴重な思い出をたくさん作ることができ、ずいぶん成長できました。
参加した一つ目のイベントは国際交流ワークショップです。フィンランドの伝統ゲーム、モルック、の試合を通じて、日本の高校生たちと交流しました。彼らは中国の高校生の生活や、中国の食べ物、中国語などに関して興味を持ちます。同時に、日本で高校生と交流する機会がなかなかない私も、明瞭でわかりやすくルールを説明してくれて、整然とゲームの進行を進めた彼らの姿を見て、すごく感心しました。
そして、五月末には二泊三日のRYLAセミナーでの体験も一生忘れられません。各業界からの若者たちと一緒に、セーリング体験、オルゴール作り、博物館見学などを通じて小樽の魅力を感じた上で、フォーラム発表をしました。最初は見知らずの人たちですが、三日間助け合いながら、フォーラム発表を作り上げて、最後に別れた時は名残惜しい気持ちでした。
そして、終わったばかりの先月の奨学生宿泊研修では、親孝行についてのワークショップを経て、世界中各地では親孝行に対する認識の違いを学ぶことができました。また、種馬場と水産研究・教育機構を見学して学びを深め、カウンセラーたちと他の奨学生たちと交流し、カラオケを歌い、乗馬体験も人生初めてです。
また、自分の世話クラブである札幌西北ロータリークラブの皆様からもたくさんお世話になりましたし、色々と勉強させて頂きました。定期例会で皆様と交流する以外には、エスコンフィルドーの見学、大通公園での植栽イベント、ゴミ拾いスポーツ大会など、有意義なイベントに参加する機会をたくさん頂きました。
ロータリー組織のおかげで、豊富で見識を広げた半年間を過ごすことができました。半年間だけですが、自分がずいぶん成長できたと実感します。ワークショップや発表会などは、自分の思考力、コミュニケーション能力、チームワーク力を向上させる貴重な機会です。そのうち、自分にとっての最大の変化は、社会と世界の一員としての自分が担う役割について深く考え始めたことです。社会的身分は学生であるため、よく勉強すればいいと考えてきた私は、ロータリーの活動に参加し、ロータリアンたちの献身的な姿を見て、自分も将来は若者を支援し、社会と世界に貢献できるような人間になりたいと決めました。
ロータリー奨学生になって、経済的負担が多く軽減されたことは私にとっては既に大変ありがたいことです。その上さらに、貴重な体験をたくさん頂き、多くの方々と繋がりを作れることに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。
残りの一年半は、勉強と研究に励みながら、ロータリーの奉仕精神を学び、国際親善と世界平和に貢献できるような立派な人間を目指して成長して参りたいと思います。