第2322回例会
第2322回例会(2024年3月11日)
「外国人日本語学習者における省略表現と日本語教育への示唆」
代 書芸 様
【研究背景】
省略表現とは、林(2010: 23)によれば、「日常会話の中で意識的あるいは無意識に、会話の中の情報を明言せず、主語、述語、目的語、連体修飾語、連用修飾語等が省略された表現」と定義されている。多くの言語の中で、日本語は、省略表現が非常に顕著に使用される。実際、筆者は留学後に日本人とのコミュニケーションを通して、日本人が多用する省略表現の理解に苦労した。例えば、SNSでよく観察される「了解」を意味する「りょ」あるいは「り」などの使用は、中国での学習現場では全く取り扱われていないもので、戸惑いも多かった。また、日本語は、「高コンテキスト」の言語であり、状況に依存した文脈で、省略表現が多用されると、外国人日本語学習者には、日本語習得のハードルがより高く感じられた。
【研究動機】
外国人日本語学習者にとって、外国語を身に付けることは、理解だけでなく、運用面がより重要視される。例えば、実際の日本語母語話者とのコミュニケーションにおいて、省略表現を理解・運用できなければ、コミュニケーション障害を引き起こすことになる。文法重視・書き言葉重視という偏った教育理念によって、正しい文章でもコミュニケーションにおいて「場違い」と評価されるような運用面での誤用例が数多く観察されるので、教育現場における省略表現の習得も運用力向上にとっては必要であると言える。
短縮語としての省略は、教室の内外での学習現場でいったん学習すれば、以後は「知識」として定着していくことが期待できる。しかし、文法、特に、文脈による省略の習得と運用は、外国人日本語学習者にとって難しいと言われている。
本研究では、日本人母語話者と外国人日本語学習者間に観察される省略表現への理解と運用の異同に関して、主に、文法や文脈による省略に焦点を当てて、省略の生じる位置による分類、主語・目的語・補語などの文法項目による省略の可能性による分類をしたうえで、談話の中でのやりとりで、日本人母語話者と外国人日本語学習者において、それぞれどの程度の省略が文脈の成立を支えるかに関する省略表現運用の特徴を検証する。
【研究目的】
省略は、元来、「復元可能性(recoverability)」という概念で説明できるとされるが、本研究では、文法レベルの省略に加えて、語用論レベルの省略例、特に、日本語学習者と日本人母語話者のSNSにおける省略表現を分析の対象とし、使用される省略表現の構造・機能における相違点を明らかにしたうえで、その知見を日本語教育で応用可能かを検証することを目的とする。(具体的には、①教育資源の開発、②ネイティブモデルの模倣、③文脈重視の教育という3点において、日本語教育現場での応用ができると考えられる。)
【先行研究の整理】
従来から、日本語における省略表現については、統語論、意味論、語用論などの観点から、盛んに議論が交わされてきた。古くは、山田(1936)は、「省略」という簡略化された形式により、キーワードを残して他を省略することで、文が絞り込まれ、インパクトが強化されるとして、「省略」の目的や動機を分析している。また、三上(1960)は、主題文の分析を通して、日本語には連続した文で主題が省略される現象があることを指摘し、書き言葉と話し言葉の省略表現の違いも考察している。
日本語のコミュニケーションにおける省略表現について、舘(2015: 43)は、省略表現は「人間関係がぎくしゃくすることを避ける」という配慮とポライトネス理論とも関連することを指摘し、省略表現の談話における役割について考察している。山口(2003:86)は、「対人関係」が日本語において大きな文脈指標であり、「省略された指示対象や話の内容・意図等を適切に理解するためには、話者の側で話者と文脈を共有することが必須である。もし、そうしたコミュニケーションの前提が満たされないのであれば、例え日本語を母語として共有する者の間であっても、聞き手の側に過度な認知的負担を負わせることから発生するコミュニケーションの障害は避けられない問題であろう。」と指摘している。また、林(2015)は、省略表現の文化的背景について、日本人の言語心理や日本的な認知方法と緊密な関係性を持ち、日本語の省略表現の多様性を映し出していると論じている。さらに、従来の省略表現への考察は主に「経済性」の側面に重点が置かれていたが、北林 (2001) は、英語を対象に、「話し手の選択」という視点から省略可能な条件などを考察している。
しかし、今までの先行研究は、主に、母語話者への考察が多く、日本語学習者の省略表現の実態については、未解明のままである。つまり、日本語学習者の省略表現には文法的・語用論的にどのような特徴があるのか、日本語母語話者の省略表現とはどのような共通点や相違点があるのか、日本語教育現場では省略表現をいかに教授するのかといった問題が手つかずのまま残されている。
【研究方法】
本研究は、以下の手順で進める。
まず、省略表現に関するコーパスの構築である。具体的には、日本の大学に在籍する20代の日本人母語話者の学生と20代の中国人留学生のSNSにおける省略表現を収集する。日本人母語話者と中国人留学生の同意を得たうえで、インターネット(掲示板、Twitter、Facebook、LINEなどのソーシャルネットワーク)での中国人留学生と日本語母語話者の大学生の投稿を収集し、中国人日本語学習者の会話における省略表現の独自のコーパスを作成する。
次に、統語論の視点から、省略を許さない要素や省略できる要素などの統語構造、省略の文法性、省略の構造規則の解析、文法的な役割について、つまり、どのような単語やフレーズをどのような形で省略できるか、各々の省略表現がどのような文法的な役割を果たすことになるのかなどについて分析する。または、語用論の視点から、言語的省略と異文化間コミュニケーションや、談話において省略によって生じる相手との摩擦を避けるといった省略表現の語用論的な役割や機能、中国人日本語学習者による省略表現の語用論的な誤用などについて考察する。
本研究では、収集された省略表現を下記の基準で分類する:
1)文中の省略
① 主語(主題)の省略
例1)なんとなく(私は)違和感を感じる。
② 助詞の省略
例2)早速、名前(を)考えなくちゃな/近いから、公園(を)通ろうか。
③ 目的語の省略
例3)(さっきの方を)存じません
2) 文末の省略
例4)A:とにかく、たべたいなぁ。
B:何を(…)。/ じゃ、電話してみたら(…)。
例5)A:どうして、遅刻したの。
B:交通渋滞に巻き込まれたから(…)
これらの省略表現には、文法や文脈などで共通認識になっている部分の省略だけでなく、相手との摩擦を避けるための語用論的な省略も含まれている。上記の例5の中で、「交通渋滞に巻き込まれたから(…)」の「から」で終わる言いさし文は、相手との摩擦を避けるために、明言をせずにすませようとして省略表現を使っていると解釈できる。
以上の基準により、日本語学習者および日本語母語話者のSNS上の会話に見られる省略表現を分類し、それぞれの使用頻度、実現条件、省略表現の自然度などを分析する。そして、これらの内容を総合的に検討し、日本語学習者の省略表現の特徴について考察する。
最後に、日本語教育の視点から、日本語学習者の語用能力向上の教育実践の課題とあり方を検討する。具体的には、以下の3つの新たな教育実践の方法を提案する。
①教育資源の開発: 日本語学習者がSNS上での省略表現を学ぶための教材や学習リソースを開発する。例えば、省略表現を含んだ日本語母語話者の投稿や会話のサンプルを収集し、学習者が実践的な文脈で学ぶ機会を提供する。
②ネイティブモデルの模倣: 学習者には、日本語母語話者のSNS上の省略表現を模倣する機会を提供する。また、ネイティブスピーカーの投稿や会話を実際に参考にし、学習者が自然な省略表現の使用を身につけることを支援する。
③文脈重視の教育: 日本語学習者に対して、日常会話やSNS上の省略表現の使用における文脈理解の重要性を教える。文脈を理解するための練習や演習を通じて、学習者が省略表現を正確に使用し、適切なコミュニケーションができるようサポートする。
この教育方法の実効性については、中国の日本語を教える塾で、現地教員の協力を得て検証する。具体的には、従来のやり方で学ぶクラスと研究成果を活かした省略表現の教材を利用して実践的に学ぶクラスに分け、それら2つのクラスの学生に省略表現を教え、最終的に学生の省略表現の理解力と運用力をテストすることで、省略表現の教材の実効性を検討する。
【期待される成果】
上記の調査方法による結果として、日本語学習者のSNSにおける省略表現の特徴として、以下のような点が想定される。まず、日本語母語話者に比べ、中国人日本語学習者は、文法レベルの省略表現を語用論的レベルの省略表現をより多用するが、文法的な誤用が多い一方で、語用論的省略表現を無意識に使用しているケースが多いと想定される。また、使用頻度から見れば、文中の省略に比べ、文末省略が日本語学習者にとって難易度が低いので、使用頻度や自然度も高いと考えられる。これらの仮説が正しいかどうかを実際に検証し、それを踏まえてさらに細かく分析することで、日本語学習者の省略表現の特徴と運用上の問題について新たな知見が得られることが期待される。
原文のまま掲載
参考文献:
北林利治.(2001)『英語における省略現象』東京:英宝社.
林翠芳.(2015)「日本語に見られる省略現象とその文化背景に関する一考察―中国語と関連して―」『高知大学留学生教育』9, pp.23-36.
三上章. (1960)『象は鼻が長い』くろしお出版社.
舘清隆.(2015)「省略現象に関する機能的考察」『福井大学教育地域科学部紀要』5, pp.35-44.
山口律子.(2003)「日本語の省略現象とコミュニケーションにおける問題」『経営・情報研究』7, pp.83-87.
山田孝雄. (1936)『日本文法学概論』東京:宝文館.