第2256回例会

第2256回例会(2022年5月16日)

「人生に大切な「健康、お金、愛」のうち、1つだけしか与えられないとしたらどれをとりますか?」
小林 博 会員 卓話

 世の中には大切なものがたくさんあります。でも整理して整理して、最後に行きつく大事なものは、「健康」「お金」「愛」の3つに集約されるかと思います。そのうちの1つだけしか与えられないとしたら、貴方はどれを選びますか?
 「健康」は生きていくためになくてはならない大切なもの。「お金」も絶対になくてはならないもの。「愛」というと男女の愛を想像するかも知れませんが、宗教的な意味での愛の心のことです。この3つはいずれもなくてはならないものばかりです。しかし、どうしても1つだけしか与えられないとき、あなたはどれをとりますか?
 市民のみなさんに聞いてみました。「健康」と答える人が多いようです。なかにはお金といわれる人もいます。愛の心こそ大事だといわれる方もおられます。3つのうちの1つだけでは、生きていくことは無理なことです。それでも敢えて本当に1つだけとしたら?
 正解はございません。人それぞれの受け止め方があると思います。回答は人生の変遷とともに変わってくるかも知れません。私自身若い頃は「健康」が一番と思っていました。医学の道を行くものとしては当然なことです。でもその後、身近な人達ががんで倒れていく現実を多く目の前にしてきました。その人達に同じ質問をしたことがあります。彼らの回答は「健康」ではなく、また「お金」でもなく、決まってみんな「愛」でした。
 ここでロータリーの原点を考えてみたいと思います。ロータリーは奉仕と親睦の団体だといわれています。そのとおりかも知れません。しかし世のなかに奉仕団体はたくさんあります。親睦団体もたくさんあります。ロータリーがそれらと同じものだとすると、ロータリークラブは一体何のためのものでしょうか? 素朴な疑問です。
 私はロータリーの本質は「愛」の心ではないかと考えております。慈愛の心といってもよいでしょう。ロータリーの心は「弱者に対する優しい労りの心、これを口で言うだけでなく、行動で実践すること」。これがロータリーの一番大切なことではないかと思っています。
 人間、いずれ死を迎えます。追い詰められた人生究極のときに思いつく3つのうちの1つはやはり「愛の心」しかないのです。この愛の心をよく学んで、実践しようと心がける道場がロータリーなのです。

 
 

「目の健康について 特に緑内障について」
相沢 芙束 会員 卓話

緑内障は失明疾患の第1位として重要な眼疾患で注目されています。
眼圧上昇・視野狭窄・視神経の緑内障性萎縮及び陥凹を主症状として視機能低下で失明する疾患で、症状の軽快はみられません。他の感染症の病気とは全く異なります。
緑内障の病態は現時点では十分に解明つくされていないのが現状です。眼圧下降のみが現在判っている有効な治療法です。緑内障の治療では早期診断と早期治療が大切な点です。更に一生の治療になりますので、治療中止と脱落は避ける事が重要になります。
日本では緑内障と診断されてから10人中9人は脱落している大変困った状況です。世界中では緑内障と診断された 50%は治療を受けています。これは何とかしなくてはなりませんが、放置されている現状で日本の衛生に関する知識の向上が望まれる処です。
視野は消失する前に周辺から欠損しますが多くの患者さんは周囲から見えなくなるため視野欠損の気付きに遅れます。病気が中期以上に進行するまで気付かず放置しているのが現状です。
緑内障は早期診断、早期管理が大切です。

 
 

「私の生きざま」
竹原 巖 会員 卓話

 阿部先生からロータリーの話もためになるが、今回は「竹原の生きざまについて話せよ」とのことでした。今年、3月31日に77歳を迎え、節目を振り返る良い機会だと思いましたので、お引き受けいたしました。
 私は赤平という炭鉱の町で昭和20年に生まれ、高校生まで過ごしました。勉強に飽きると近くの公園に行き、詩集、小説を読みふけり、漂泊を夢見る少年でした。当然のことながら受験には失敗し、札幌で姉の家に下宿して、予備校に通う浪人生活が始まりました。田舎から出てきた少年は、華やかな大都会の札幌にしっかりと魅了され、予備校仲間や就職していた同級生達と毎日遊びまわる、楽しい・楽しい浪人時代を過ごしておりました。
 そんな私を見て姉の夫で国税局に勤務していた兄から、酒・雑貨店を手伝ってはどうかと誘われました。このまま、受験勉強を続けていても再び不合格になることが必至だったので、義兄の提案を受け入れ、販売の勉強を始めました。2~3年すると商売の要領を覚え、古参の社員たちを指導するようになりました。
 そのような時、1967年の秋ごろ私の兄より、共同創業者だった社長が亡くなり会社を引き継ぐことになったが、遺族と揉めいて新しく会社を始めようと計画しているので、一緒にやって欲しいと誘われました。家業である鉄を使っての物作りの仕事には、違和感なく溶け込めそうなので兄の提案を受け入れました。
 手探りで設立準備、社員募集の目途も終えて、1968年春より総勢7名で創業いたしました。会社を始めたのは良いが、果たして注文が来るのか?心配されましたが、兄が旧会社で取引していたお得意様からの信頼が厚く、自社だけで作り切れないほどの発注をいただき、仲間の会社の応援を仰ぎ、また、休日出勤や残業をしなければならない多忙な日々が続くスタートとなりました。会社を始めた6か月後の秋には、現在地に土地を購入。翌春に工場、事務所、宿舎を新築しました。兄も私も20代・30代と若かったこと、日本経済が高度成長期に突入し、札幌市も大きく成長する時代と重なり、会社は資本金の増資、工場の増設を毎年のように続け、順調に拡大していきました。
 会社を存続させ発展させるために、多くのことを心掛けてきましたが、特に強く心掛けたことは、会社・自分を取り巻く全ての人々、最近は「ステークホルダー」と言うようですが、社員、家族、仕入先、協力会社、同業者、客先等々に公平に、そして思いやりもって接することを第一に心掛けました。この思いはロータリーの職業奉仕に通じるものであり、この職業奉仕の理念は、私にとって会社を経営・運営するうえで大きな自信を与えてくれるものでした。
 2006年4月1日から社長に就任し、長期的な観点から工場のリニューアルや機械の大幅な入れ替えなど、大胆で積極的な投資を行いました。リーマンショックもあり景気低迷の時期でしたので、回りから竹原は何をやってんだと不審がられましたが、私は日本全体が再開発による建築需要が必ず拡大すると予測し実行しました。
 2018年3月末、会社創立50周年を節目に社長職を引退し、二つの会社は甥と息子にバトンタッチしました。これまでに、六つほど会社を設立し会長・社長・取締役をしていましたが、2018年までにすべての会社から一線から退くとともに、各種団体などの役員もすべて退任しました。 社長職を退いた後は、人生を楽しむために、いろいろな計画を持っていました。世界遺産巡りや、青春時代に読んだ本を読み返す、収集したレコードやCDを聴く等、青春時代に感じた感動が、今どのように感じるのか知りたいと思っていました。ところが、加齢に伴う視力や聴力の低下によって、計画どおりにはいきませんでした。健康で頑強な体でしたが、昨年の春ごろより夜中にトイレに起きるようになり、その頻度も増して機能の低下を感じ、診察を受けようと思っていた矢先、浜松市に3月初めゴルフに行った折、早朝から排尿困難となり、浜松の病院で処置してもらい、札幌に戻り次第精密検査を受けるようアドバイスいただきました。診察結果は膀胱がんと前立腺がんで、4月1日に入院、5日に手術しました。がんはリンパから骨、肺などに転移してますが、ホルモン療法という治療法で治療を始めました。主治医からは「完治するのは難しいが、転移したがんも抑制することが出来ると思う」といわれました。先生からの話を冷静に聞くことが出来て、ショックを受けたり悲観的な気持ちには、まったくならなかったです。これからは、小林先生がおっしゃっている「元気に老いて、がんで逝く」をモットーに実践したいと考えています。
 私の人生はどれだけ残されているのか?わかりませんが、かねてより描いていた夢を、出来れば叶えて終末を迎えたいと思っております。夢の一つは、札幌の街を音楽であふれ芸術豊かにする「街角ピアノ」の活動です。当クラブが創立20周年記念の一環として「札幌芸術村」に寄贈したグランドピアノ「ペトロフ」(チェコ製)を使い、札幌芸術文化財団で管理している「市民ギャラリー」で開催しては、という話も来ております。これらの活動を出来る限り実行させ継続できるよう願っております。
 二つ目の夢は、コンサートホールと地域の人達が、自由に集える集会所を作ることです。会社で建設を計画しているビルの中に、「コンサートホールを作って欲しい」と息子にお願いしたら「収益の生まない事業に資金を使うのはだめです。会長個人でやってください」と一蹴されました。確かなことだと納得し、自分で実現しようと計画しております。コンサートホールと言っても、大規模なものでなくピアノ教室の発表会が出来る程度の小規模なものです。集会所はお年寄りの趣味のサークルや、子供たちの学習の場として気楽に使えるものです。この二つの夢が実現できるまで、がんと仲良く共存していこうと思います。これで私のスピーチのエンディングとします。

 
 

ーーー 各会員の卓話は下記より動画でご覧頂けます ーーー
 
小林 博 会員

相沢 芙束 会員

竹原 巖 会員