第2231回例会
第2231回例会(2021年8月30日)
新会員卓話
田村 健一 会員
私は北一ミート株式会社代表取締役の田村といいます。今年4月に札幌北RCに、ときの会長、斉藤会長とのご縁で入会させていただきました。
新入会員の卓話ということで、自己紹介がてら、当社の紹介をさせていただこうと思います。
現在、札幌市内外で1500件ほどのお取引先様(主に外食産業関係)にお肉の卸売りを行っており、創業から42年経ちました。始まりは1979年10月11日早朝4:00。札幌中央卸売市場の一角でシャッターを開けて始まりました。当初は、市場で肉を売る算段でしたが、中央卸売市場にくる人達は野菜か魚を仕入れにくる人ばかりで、肉は全然売れず、近場の飲食店に肉を買ってもらえるよう歩いたのが、現在のビジネスモデルの基本になっています。
ここで皆様にお伝えしたいのが、当社のユニークな社員教育です。2012年までは、昭和のやり方と言いましょうか、ノルマや残業は当たり前。当時は指導のつもりでしたが、現在のパワハラにも例えられるような事は日常茶飯事でした。厳しい時代を生き抜くにはどの企業もやっていたかも知れませんが、離職率が高く、辞めていった社員には「あの人は持たなかった」と辞めた社員の耐久力に問題があったと考える節がありました。しかし、残った社員が「辞めなくてよかった」辞めた社員が「辞めなければよかった」と思える会社づくりをしなければ、残ってくれた社員に申し訳ないと考え始めました。そこで、社員教育や良い社風の醸成に着手することになりました。
当社にはノルマがありません。販売会社にはあるまじきことかも知れません。仕事を楽しむ、会社に来たくなる会社づくり、先輩は後輩のために在るという文化づくりを進めていく一方、会社に行くのが憂鬱になる原因の「いやな上司がいる」「ノルマが大変」等の離職の原因となるストレスを出来る限り下げる方法を取り入れました。ここからは項目ごとにご紹介します。
・仕事を楽しむ、会社に行きたくなる会社づくり、我々は肉屋です。なので、肉を美味しいと思うのも仕事。不味いと思うのも仕事。そこで先輩社員に2〜3人一組になって東京へ行って美味しい熟成肉のステーキと不味い熟成肉のステーキを食べておいでという指示を出しました。美味しいステーキはすぐネットでも探せますが、不味いステーキはなかなか探せません。
選ばれた先輩社員は、情報が乏しい中、ちゃんと不味いステーキを探し当て、指示通り美味しい熟成肉ステーキと不味い熟成肉ステーキを食べてきました。帰ってきた先輩たちは、「本当に不味いステーキでした!」と嬉しそうに話し、思い出や勉強になったと非常に喜び、その先輩たちをみて、後輩が「ああいう先輩になりたい」と後を追うように仕事を頑張るようになりました。現在では、肉屋として先輩と後
輩が研鑽しあう、ときには部活のように朝練も行い、
肉屋としてのスキルを楽しんで高めあう文化が根付
きました。
・先輩は後輩のために在る
先輩からいただいた恩は後輩へ送りなさい。これが社風です。必ず後輩のために仕事をすること。そうすることで、100年後の新入社員も幸せになる。ということを掲げています。
・ストレスの軽減
いやな上司がいると、それだけで会社への足が遠のきます。離職の大きな原因でもあります。そこで、メンタルサポートを入れて、第三者と面談を行い、会社に言えないことを聞いてもらうことにしています。中には、ご自身の問題もあり、それはメンタルサポートの先生が、本人と共に解決してくれます。また、会社に言うべきことをなかなか言いだせないというものもあり、それは、言いだした社員の名前は伏せた状態でメンタルサポートの先生に会社にとって改善すべきこととして指導をお願いします。ハラスメントもあれば、仕組 みの改善、虫の居所でモノをいう上司には当然是正していただきます。こういう活動が離職率を大幅に下げ、社員の成長と会社の成長が予定通りに運ぶようになりました。
・ノルマの撤廃
個人のノルマを撤廃しました。それよりも、会社全体の売上が上がることを楽しみながら意識するという方法をとっています。
9年前から、毎朝、社員に今日の売上を聞きいております。そうすると誰に聞いてもほぼぴたりと当てられるようになります。当たった、外した、も楽しみながら聞きあう風土が根付きます。その合計が月間の売り上げ。それが慣れてくると、月初にその月の毎日の売り上げを紙に書き出してくれるようになりました。それもほぼピタリと当てます。その精度は、月間平均15%前後の誤差です。超能力ではありません。感覚として根付きます。今度は、その力を売上向上に使います。半年後はこの売上を目指すぞ、そうして彼らの想像力を盛り上げ、実際にその数字を目標ではなく、必ず通過する予測値として取り扱うことになります。その積み上げで、コロナ禍直前までには、9年前のほぼ倍の売り上げを作るほどになりました。想像力の力は無限です。個人の売り上げをどうのこうのと言うのではなく、社員と共に楽しみながら達成する。そういう会社になりました。
以上のことで、当社は離職も少なく、必ず成長するというビジネスモデルを手に入れました。
次のステージは、コロナ禍において当社が変わることが求められています。コロナ情勢を踏まえて社会に対して我々が出来る新しい食肉文化の提案ができ
るかどうかが試されています。
挑戦のひとつが、札幌ではおそらく初めての生ハム(スペインでいうハモンセラーノ)の製造、熟成庫が保健所の認可をとりました。しかし生ハムは在庫リスクも製造リスクもとても高く、非加熱の長期熟成が必要なので作るのに18か月かかります。今試しに作っても出来栄えがわかるのが再来年という商品。これを始める肉屋は殆どありません。私らがやらなければ誰もやらないし、出来ない。幸い、試作・研究は15年ほど繰り返していたので、いつの間にか私は数少ない生ハム職人には成っていました。
そして、いよいよコロナ禍の煽りを受けたのもありますが、勢いで製造を開始しました。宴会がなくなって、宴会料理を作っていた部門が売上95%ダウンという現状を受けて、何かしなければという見切り発車です。「せっかくだから、肉屋としてカッコいいことをしよう!」当然、熟成庫建設等の設備投資は、初めて行う手探り感や先の不安もありました。しかし、おかげ様で当社がかつてないほど注目される事となり、取材が絶えないという現象が起き始めました。 大手百貨店等の新しい販路もすぐに見つかり、まさに新しい北一ミートが誕生したかのように現在は社員共々楽しくコロナ禍を過ごさせていただいております。
時代と共に変化をしながら、肉屋としての骨子はぶれずに今後もまい進する所存ですので、ロータリーの皆様、新しい仲間として今後とも宜しくお願いいたします。
川内 玄太 会員
改めまして、藤城建設の川内玄太です。貴重な時間を頂きありがとうございます。
何を話そうか考えた時に、この「建築」というフィールドを選ぶことになったそのルーツを少しお話しできたらと思い、幼少時代など想い返してみました。
網走郡美幌町という小さな町で大工の一人息子として生まれ育ちました。学校の登下校の時には父親の現場に寄って掃除など手伝い、お小遣いを貰ったり、歩いて1時間かかる道程も、父親と一緒なら車で帰れる優越感もあり、小さい頃は建築現場が遊び場になっていました。振り返ると自分のモノ造りの原点だったなと思います。
高校はサッカーで有名な室蘭大谷に進み、3年間親元を離れサッカーに明け暮れたのですが、今思えばサッカーが上手くなりに行ったというよりは、全国区の環境に身を置いたことが自分にとって凄く大きなターニングポイントで、今でもその時に培った考え方や、根性論のようなものは仕事にも生かされていると思います。
室蘭大谷には「サッカーは人を育てる」という詩があって、端的に言うと礼儀や感謝を忘れずのようなことが書いてあるのですが、実はスパルタの練習じゃなく、先進的な部分が形成されていった時期だったのかなと思います。
そんな高校の冬休み、子どもの頃からずっとスポーツのライバルであった、友人の家を父親の会社が請け負って、父親のテコとして1棟まるっと携わることが有りました。その友人は、まさに今開催されているパラリンピックに出場しています。徒競走やマラソン大会など、自分といつも1位・2位を争っていた人間が、突如足の自由を失い、車いす生活をすることになった。かける言葉なんて見つからなかったけど、住宅建築を通して「家を建てる手伝いをすることができた」というのが、自分にとってすごく嬉しくてやりがいがあった出来事でした。
そのあとすぐに、父親の仕事の手伝いで朝早くから丸1日ずっと弟子のように大工作業をした現場で、設計を担当した現場監督さんが、棟梁の父親に何か指示している場面があって、その光景を目にした時に、父親を超えるのは「設計の仕事だ!」と思ったんです。大工見習なら一生父親には勝てないけど、設計なら父親をアゴで使える!と思い、建築学科のある大学に進みました。
しかし母親からは4年間、目一杯遊んで来いっ!と送り出された大学時代はサッカーに明け暮れ、4年で意匠系のゼミ(卒業設計)を選択し、漸く設計へ没頭していく1年を過ごしました。卒業1か月前の2月に設計事務所への就職が内定しました。その設計事務所は藤城社長が元いた会社と取引があり、今いる城建設とも繋がっていたのです。
設計事務所では「1本の線の重み」や「基本を知らないと常識を超えるような作品は出来ないよ!」とか「大工さんへラブレターを書くつもりで図面を美しく分かりやすく描きなさい」など、設計の基本を学びました。
藤城建設に入ってからは、とにかく何でも経験させて頂いています。設計から営業・企画・不動産関係なども経験していくと、建築家になりたいというより、建築人になりたいという意識の方が強くなってきたように思います。
今は自分に与えられたような経験を、若いスタッフにも継承していけるように、この北ロータリーでドンドン吸収し、目標は北海道の企業と言えば「ニトリ・セコマ・藤城建設」と言われるくらいの、HOKKAIDOのDNA、北海道らしい家と言えば藤城建設と言われるくらいの会社にするという野望があります!